大判例

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東京高等裁判所 昭和46年(う)1782号 判決 1971年10月27日

被告人 吉田茂

主文

原判決を破棄する。

被告人を禁錮六月に処する。

理由

(控訴の趣意)

弁護人金原藤一、同亀井忠夫が提出した控訴趣意書記載のとおりであるから、これを引用する。

(当裁判所の判断)

控訴趣意第一点について。

論旨は、原判決は罪となるべき事実において、「被告人は、後続車両の有無に気をとられて前方を注視しないまま同速度で進行した過失により」と認定しているが、後続車の有無に気をとられて、前方を注視しないという認定は、事実誤認である。また、原判決は、法令の適用の項において、「歩道上で車道左右の様子を見た後、横断歩道によつて横断を始めた歩行者に約八メートルに近づくまで気付かず」と判断しているが、歩行者が車道左右の様子を見たという点は確たる証拠はなく、事実を誤認している。しかも、右二つの事実誤認に基づき、被告人の過失は大きいと判断しているのであるから、右事実誤認はいずれも判決に影響を及ぼすことが明らかである、というのである。

そこで考えてみるのに、原判決挙示の関係証拠によれば、被告人は、自動二輪車を運転して原判示の横断歩道直前付近にさしかかつた際、右横断歩道によつて横断する歩行者の有無およびその動静を確め、横断歩道上の交通の安全を確認して進行すべき業務上の注意義務があるのに、これを怠り、前方を注視しないでその安全を確認することなく漫然進行した過失があつたことは十分認めることができ、一件記録を検討し、当審における事実取調の結果に徴しても、事実誤認を疑わせるに足りるものは存しない。そして、原判決が前記過失を認定するにあたり、被告人が「後続車両の有無に気をとられて」と判示した部分は、これに続く被告人の前方を注意しないまま進行した過失行為の縁由たる事実として認定した趣旨であると解されるところ、被告人の捜査段階における供述中には、被告人は横断歩道の手前三、四〇メートル付近でバツクミラーにより後続車両の有無をちらつと見たところ、左のバツクミラーに乗用車らしい一台の車がずいぶん後ろに写つて見えた旨の供述があるけれども、そのことから直ちに被告人が後続車両の有無に気をとられて前方を注視しなかつたと認定するのは無理であり、他に右認定に照応する証拠は見出しがたいから、原判決の右認定部分は誤りであるけれども、原判決は前示のとおり前方不注視、安全不確認等の過失を正当に認定判示しているのであるから、右の点の誤りは明らかに判決に影響を及ぼすものとは解されない。それゆえ、論旨は理由がない。

また、被害者が横断歩道上を横断するに際し、車道の左右の様子を見たか否かについては、目撃者である奥津政吉の司法警察員に対する供述によれば、「被害者はちよつと左右を見た様子であつたが、」というのであり、当審において同人を証人として取調べたところによつても、被害者は奥津が立つている所の左方から来て、同人の後ろを通つて右側に来たと思つたらするすると渡りはじめたというのであるから、被害者が車道の左右を見てから横断を始めたことを確認しがたく、なお、被害者の左眼が義眼であつたことをも合わせ考えると、所論のように歩行者が車道左右の様子を見てのち横断を始めたという点については確たる証拠を欠くといわなければならない。しかしながら、横断歩道における歩行者の優先権は道路交通法の諸規定に照らし明らかであつて、歩行者の横断に若干慎重さを欠く点が認められるにしても、それは被告人の本件過失の存否に影響を及ぼすほどのものではなく、他の事情とも相まつて量刑上考慮すべき一つの事情となりうるに過ぎない。それゆえ、判決に影響を及ぼすことの明らかな事実の誤認があるとの論旨は、理由がない。

なお、所論は、被告人は、横断歩道の手前二、三〇メートルから前方を注視していたが、被害者が急に横断歩道に飛び出してきたのであるから、被害者に信頼の原則を無視した非常識な行動があつたものというべく、原判決が被告人の一方的過失を認定しているのは判決に影響を及ぼす事実の誤認がある、というのである。

しかしながら、犯罪の成否につき過失相殺の観念を容れない刑法上の過失犯にあつては、かりに被害者側に過失が認められる場合でも、そのことを罪となるべき事実に認定判示しなければならないものとはいえず、原判決は単に法令の適用の項において、被告人の過失は大きいといつているだけであるから、所論のように一方的過失を認定したとは断定しがたいところであるが、それはともかくとして、奥津政吉の司法警察員に対する供述および当審における事実の取調としての同人の証言によつてみても、被害者がかけ足で横断歩道上に飛び出したことは認めがたく、むしろ、本件事故は、記録に明らかなように、衝突地点が歩道の縁石から三・四五メートル離れた横断歩道上であること、被告人運転車両の時速が約四〇キロメートル(秒速約一一メートル)であつたこと、これと、年令六七才の被害者の通常の歩行速度とを考え合わせ、それに当時は昼間で見とおしのよい場所であつたことなどを総合すると、被告人において原判示の前方注視、安全確認の義務を遵守していたならば、被害者が本件横断歩道を横断し又は横断しようとしているのを発見しえたことは、これを優に肯認することができる。それゆえ、本件につき信頼の原則を云々する余地はないから、被害者がかけ足で横断歩道に飛び出したことを前提として、信頼の原則を無視したとする所論はとうてい採用しがたく、原判決が被告人の過失を認定したのは相当であつて、判決に影響を及ぼす実事誤認ないしは法令適用の誤があるとはいえない。それゆえ、この点に関する論旨も理由がない。

控訴趣意第二点のうち審理不尽の主張について。

所論は、原審は、被告人側が申請した証人奥津政吉の証拠調請求を却下し、弁護人主張の被害者が飛び出した点に関する防禦の機会を奪い、必要な審理を尽くさなかつたのであつて、判決に影響を及ぼすことが明らかな訴訟手続の法令違反がある、というのである。

しかし、証拠の採否は原裁判所の裁量の範囲に属するところであり、一件記録によれば、弁護人申請の証人奥津政吉が目撃証人としてはなはだ重要な人証であることは認められるけれども、原裁判所は、すでに本件事故の目撃状況について右奥津の司法警察員に対する供述調書を刑訴法三二六条の同意がある書面として取調べているのであるから、他の取調ずみの証拠調の結果にもかんがみ、右証人申請を却下したからといつて、その裁量権の範囲を逸脱した違法があるとは考えられない。それゆえ、論旨は理由がない。

控訴趣意第三点について。

論旨は、原判決は、被告人の原判示の業務上の注意義務違反の前提となる関連事項を確定しないで被告人の過失責任を認定した審理不尽の違法があり、右は判決に影響を及ぼすことが明らかである、というのである。

しかしながら、一件記録によれば、原判示の過失認定の基礎となる事実関係すなわち事故発生の状況、事故発生直前の加害者側の事情(運転車両の種別・速度・被害者発見地点、これに対する措置等)、事故発生直前の被害者らの行動(とくに被害者の横断歩道上に出た状況など)、事故発生の場所的状況(横断歩道上の人身事故、道路の状況、前方の見通し、道路における交通規制)、当時の明暗度について取調がなされており、このことと速度、制動距離等の公知の事実、道路交通法上の諸規定に照らせば、被告人の本件過失認定の前提たる関連事項として必要な取調はなされており、本件において横断歩道の手前三、四〇メートル付近から横断歩道による歩行者の有無、動静を確認し、前方注視を怠ることなく進行すれば被害者との衝突を回避する措置をとることは容易であつたと認められるのであつて、所論のような審理不尽の違法はないといわなければならない。それゆえ、論旨は理由がない。

控訴趣意第二点のうち刑訴法三三五条二項の判断遺脱の主張について。

論旨は、被害者に信頼の原則違反があり、被告人のみに過失責任を負わせるべきでない旨の原審弁護人の主張に対し、原判決は判断を遺脱した違法があり、右違法は判決に影響を及ぼすことが明らかな訴訟手続の法令違反である、というのである。

しかし、信頼の原則は具体的な事実関係のもとにおいて諸般の状況にかんがみ被告人に責められるべき過失があるか否かの問題であつて、結局過失犯における犯罪構成要件該当性の有無に関する事実主張の問題に帰するものと解せられ、法律上犯罪の成立を妨げる理由または刑の加重減免の理由となる事実上の主張にはあたらないものというべきである。それゆえ、論旨は理由がない。

控訴趣意第四点について。

論旨は、原判決の量刑は重きに失して不当である、というのである。

そこで、一件記録を検討し、当審における事実取調の結果を参酌して諸般の情状を考察してみるのに、被告人は、自動二輪車を運転して時速約四〇キロメートルで原判示の横断歩道にさしかかつた際、横断歩道による歩行者の有無、動静を確め、その安全を確認して進行すべきであつたのにこれを怠り、前方不注視のまま漫然進行した過失により、右横断歩道上を左方から右方に横断中の被害者を左斜め前方約八メートルに至つて始めて発見し、急制動を施したが間に合わず、同人に自車前部を衝突させ、その結果貴重な一命を失わせることとなつたのであるから、その過失の程度、結果共に重大であつて、その所為は強い批難を受くべきものといわなければならない。しかしながら、被害者側にも他の歩行者は車の通過を待ち横断歩道による横断を見合わせていたのに不用意に横断を始め、その行動に慎重さを欠いた点があつたことは否定しえないところであり、また、被害者の遺族との間に示談が成立し、示談金の支払いもすませ陳謝の誠意を示していること、被害者の遺族も寛大な処分を希望する旨の意思を表明していること、被告人には全く前科前歴のないこと、被人の年齢、経歴、行状性格、勤務の状況、家庭の事情その他所論の事情一切を考慮すると、本件は被告人に対して刑の執行を猶予すべき案件とは認められないけれども、原判決の量刑はいささか重きに過ぎ不当であるので、論旨は理由があり、原判決は破棄を免れない。

そこで、刑訴法三九七条一項、三八一条により原判決を破棄したうえ、同法四〇〇条但書に従い、当裁判所においてさらに次のとおり判決をする。

原判決の確定した事実に法律を適用すると、被告人の原判示所為は刑法二一一条前段、罰金等臨時措置法三条一項一号にあたるので、所定刑中禁錮刑を選択し、その所定刑期範囲内で被告人を禁錮六月に処し、主文のように判決をする。

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